新着情報
  • 2020年6月15日【勝楽寺名古屋分院 最勝殿 開苑再開のお知らせ】
    新型コロナウイルス感染症拡大防止のため休苑しておりましたが、5月20日(水)より開苑を再開いたしました。
    開苑時間は10:30~17:00に短縮させていただいておりますが、6月20日(土)より通常開苑時間の10:00~18:00とさせていただきます。
  • 2016年7月30日屋内墓苑「熱田の杜 最勝殿」開苑
  • 2016年4月14日ホームページ公開
  • 2016年4月14日屋内墓苑「熱田の杜 最勝殿」発表

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勝楽寺について 〜SHOURAKUJI Temple〜

勝楽寺は大本山に永平寺を仰ぐ開創八百余年の曹洞宗の禅寺です。永平寺七十四世勅賜直指円性禅師は当山の先代住職です。
三世朝玄賀和尚は、徳川家康の遠州への進出を助け、長篠・設楽原の戦いの後には、死者の霊を弔う大施餓鬼を行い、松明を炊いて供養につとめたといいます。その松明は、「火おんどり」として現在も受け継がれています。勝楽寺という寺号は、古くは「松楽寺」という表記でしたが、1575年(天正3年)5月21日に武田家を打ち破った織田信長・豊臣秀吉と徳川家康が当山に立ち寄り、戦勝の祝杯を上げ、「松」の一字を「勝」に改めたと言われています。
また、当山は川路城主・設楽家の菩提寺でもあります。

歴史

  • 室町時代 遵慶律師により真言宗の一宇として開創。
  • 1470年
    (文明2年) 
    室町幕府第9代将軍足利義尚の治世、
    川路領主設楽兵庫頭が玄済和尚を講じ、
    中興を図り、設楽氏の菩提寺となる。
  • 1481年
    (文明13年) 
    初祖、玄済和尚が入寂する。
  • 1532年
    (天文元年) 
    三世朝玄賀和尚が、山吉田の
    領主鈴木長門守重勝に
    招請され、青龍山満光寺を開く。

    三世朝玄賀和尚は、英明の誉れ高く、慈雲寺、
    慈眼寺、龍泉寺、常林寺、常法寺、大泉寺、
    長昌院、勅養寺など多くの末寺を指導した。
  • 1568年
    (永禄11年) 
    三世朝玄賀和尚の要請により、野田城、山吉田城、
    井伊谷城、二俣城の各城が徳川家康の麾下に入る。
    徳川家康の遠州進出を助ける。
  • 1575年
    (天正3年) 
    長篠・設楽原の戦いの後に、
    織田信長・豊臣秀吉と徳川家康が、戦勝に因んで
    「松」の一字を「勝」に改めたと伝えられている。
    また、この年に、現在の火おんどりのルーツとされる
    大施餓鬼が行われる。
  • 1781年
    (天明元年) 
    十三世恭衷和尚により、本堂(現存する)が
    建設される。棟瓦には「皇帝億萬歳」の
    文字が入れられた。
  • 1968年
    (昭和43年) 
    勝楽寺二十八世の法灯を受継いだ佐藤泰舜は
    曹洞宗大本山永平寺七十四世の猊座に登られる。
    同時に曹洞宗管長に就任、「直指円性禅師」の
    勅賜号を受ける。法臘六十四年、世寿八十五歳。

    佐藤泰舜(たいしゅん)明治23 年12 月1日、愛知県新城市、佐藤家に誕生。
    大正4年、曹洞宗大学卒業
    大正12 年、東京帝国大学卒業(大学院2年研究)、奈良大学に留学。
    昭和6年、欧州に留学。帰国後、駒沢大学、東洋大学、京都帝国大学等の教授を歴任、仏教学を講じる。終戦後は、豊川高等学校長、長崎晧台寺僧堂堂長、伊豆修禅寺僧堂師、大本山永平寺 不老閣猊下随行長、監院等を歴任。

  • 1985年
    (昭和60年) 
    岩瀬忠震の生家、設楽家の菩提寺である当山客殿に
    おいて、忠震の顕彰を願う同士6名が集い、顕彰碑建
    立を発起する。
  • 1986年
    (昭和61年) 
    当山の敷地内に
    岩瀬肥後守忠震顕彰之碑が建立される。
  • 1987年
    (昭和62年) 
    顕彰碑建立をきっかけに、
    岩瀬忠震顕彰団体として「忠震会」が結成される。
  • 出展リスト 東郷村沿革誌 東郷村刊
    岩瀬忠震 新城市設楽原歴史資料館
    新城市設楽原歴史資料館
    傘松(復刻版)

■火おんどり1575 年(天正3年)5 月の長篠・設楽原の戦いでは、両軍合わせて15,000 人以上が命を落としたといわれています。
村人たちは戦没者を手厚く弔いましたが、死者を埋葬した
ばかりの信玄塚から蜂の大群が出て、往来する人馬を刺すという騒ぎがありました。それを武田軍の亡霊のしわざと考えた村人が、当山の玄賀和尚に頼んで大餓鬼を行い、松明を焚いて供養につとめたところ、騒ぎが収まったというのが、火おんどりのはじまりと言われています。

【信玄原の火おんどり】
毎年、8月15 日に信玄塚において行われる勇壮な祭り。地区の男衆はそれぞれ長さ2m~3m、直径70 ㎝~80cm ほどにもなる大松明を鉦(しょう)や太鼓の囃子にのって、8の字を描くように振り回します。

■岩瀬肥後守忠震
(いわせひごのかみただなり)顕彰之碑
当山は、幕末に、積極的開国論を主張し、外交官として開国に向けて尽力したことで知られる岩瀬忠震(1818 年~1861 年)をお祀りしています。1818 年(文政元年)、竹広設楽家第8代領主設楽貞丈の3男として誕生した忠震は、1858 年(安政5年)にアメリカとの間に締結された「日米修好通商条約」をはじめ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの修好通商条約調印の立役者となった人物です。大老の井伊直弼に決断を迫り、最終的には独断で「日米修好通商条約」を調印するなど、果敢な行動力で日本開国に貢献しました。その功績を讃えるため、1985 年(昭和60 年)、設楽郷党諸氏によって顕彰碑建立を発起。翌年、岩瀬肥後守忠震顕彰之碑が勝楽寺敷地内に建立されました。

■設楽家の菩提寺当山は、三河国設楽郡を出自とする設楽家の菩提寺です。設楽家は、室町時代には将軍側近の奉公衆を勤め、徳川家に仕えても新年の御謡初めでは上座に鎮座したという名門で、戦国時代の石高は5000 石に及びました。設楽家第2代貞通(1534 年~1596 年)は、三河国設楽郡(愛知県新城市)の川路城主となり、家臣として徳川家康に仕えました。
貞通は豊川三人衆の一人でもあり、長篠・設楽原の戦いでは酒井忠次率いる鳶ヶ巣山攻撃隊に参加し、樋田に陣を構えました。また、徳川氏の関東国替えにともなって設楽貞道の長男・貞清が武州埼玉郡礼羽に移転したのに対し、次男・貞信は1601 年(慶長6年)に分家して旧領設楽郡竹広に陣屋を置き、竹広設楽家の祖となりました。
※御謡初め(おうたいぞめ):新年に謡曲を謡う儀式。


境内のご案内 〜Guidance〜

  • ①聖観音菩薩(合祀墓)寺院内には永代供養が行える合祀墓を設け、象徴として聖観音菩薩像を奉安しました。
  • ②開山堂・位牌堂お堂の中には、檀家の皆様のご先祖様のご位牌を安置しています。また長篠・設楽原の戦いで亡くなられた、両軍の武将の位牌が祀られています。
  • ③本堂江戸時代中期の建造。ご本尊には釈迦牟尼仏が安置され、外には仁王像が鎮座しています。
  • ④会館葬儀や檀信徒の会合など、多目的にお使いいただけるスペースです。
  • ⑤貴賓室永平寺・各宗派や宮家の方々が来られた時にお使いになります。
  • ⑥客殿・庫裏客殿は、法要などの際に控え室や会食の間としてご利用いただけます。
  • ⑦鐘楼山門や本堂と同じ、江戸時代中期の建造。朝昼晩には鐘撞きが行われています。
  • ⑧山門現存する寺院内の最古の建築物。内部には、お稲荷さんの祠が安置されています。
  • ⑨岩瀬肥後守忠震顕彰之碑日米修好通商条約調印をはじめ、日本開国の立役者として活躍した岩瀬忠震を顕彰しています。

勝楽寺フォトライブラリー PHOTO LIBRARY


アクセス・周辺環境 〜Location〜

〒441-1306
愛知県新城市川路字夜燈20 >> MAP

■アクセス
電車でJR飯田線「三河東郷」駅より
徒歩約3分
お車で新東名高速道路「新城インター」より
約3分

■駐車場完備
※徒歩時間は80mを1分として換算しています。自動車所要時間は一般道を時速40km平均で、信号待・渋滞を考慮せず走行した場合の計算です。交通状況等により所要時間は異なります。

画像:勝楽寺外観勝楽寺境内


見どころスポット※画像をクリックすると拡大されます


新城市の特産品※画像をクリックすると拡大されます


ごあいさつ 〜Greeting〜

聖堂山 勝楽寺 住職 佐藤泰惇
ここ東三河には、名所・旧跡が多く、戦国時代から受け継がれてきた火おんどりなど伝統あるお祭りも存在しています。勝楽寺もまた、800年以上前に開創して以来、長きにわたる歴史を刻んでまいりました。この先も、ひとつひとつの出会いやご縁を大切にしながら歩んでいく所存です。また、都会に暮らす方々にも、心のふるさとを持っていただきたいという想いから、名古屋市熱田区に名古屋分院・納骨堂を開苑することとなりました。お釈迦様の教えのもと、人と人をつなぐ心の拠りどころとなるような場づくりをめざしてまいりたいと願っております。当山は、長篠・設楽の戦いにおいても、歴史の舞台となった由緒ある寺院です。東三河へお越しの際は、どうぞお気軽にご参拝ください。

勝楽寺前激戦地 〜history〜

勝楽寺のある新城市川路地区は、織田・徳川連合軍と武田軍とが戦った長篠・設楽原の戦いの戦地です。
敷地のすぐ南は設楽原の最南端に位置する田園地帯で、激しい戦闘が繰り広げられた場所。武田軍の山県昌景隊が攻撃を仕掛け、徳川軍の大久保忠世・忠佐兄弟の隊が迎え撃ち激戦となりました。戦いの後は、当山の三世朝玄賀和尚が村人たちとともに、戦没者の供養につとめました。その伝統は、新城第1番出世観音霊場として今も受け継がれています。街道沿いには、設楽原戦没者霊場の石標が立っています。

■設楽原の戦いとは
1575年(天正3年)5月21日、長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍の間で行われた戦い。当時、無敵を誇るといわれていた武田軍の騎馬隊に対し、織田・徳川連合軍は馬防柵を築き、鉄砲隊により迎え撃つ戦術を採り、圧倒的な強さで勝利しました。この戦いでの戦没者は15,000人以上に及んだと言います。

■設楽原決戦場祭り
毎年7月の第1日曜日には、合戦の舞台となった場所で、「設楽原決戦場祭り」が開催されます。鉄砲隊による火縄銃の演武や武者行列などが行われ、当時の戦いの様子が再現されます。

■設楽原古戦場いろはかるた
長篠・設楽原の戦いを48句のカルタで詠み表したのが設楽原古戦場いろはかるた。1981年(昭和56年)に、設楽原をまもる会によって制作されました。

画像:勝楽寺前激戦地の石碑/現在の勝楽寺前激戦地/勝楽寺の200mほど南側に建っている設楽原古戦場いろはかるたの看板/勝楽寺の北側、国道沿いに建っている設楽原古戦場いろはかるたの看板/設楽原古戦場いろはかるた